[{"content":"古い写真が一枚、出てきました。\n1993年6月頃、秦皇島の北戴河で撮ったものです。\nあの年、私は15歳、父は42歳でした。\n当時、父は承徳市畜産公司の総経理を務めていました。社員の北戴河旅行を企画し、私も一緒についていったのです。\n写真の私は、水中眼鏡をつけ、緑色の浮き輪を身につけて海辺に座っています。父はすぐ隣で、カメラに向かって笑っています。波が砂浜に寄せ、後ろには大勢の海水浴客がいます。\nあの旅行の細かなことは、もうあまり覚えていません。どこに泊まったのか、何日いたのか、誰がこの写真を撮ったのかさえ、記憶にありません。\nただ、父と一緒に写った、数少ない写真の一枚だということだけは覚えています。\n2003年、父は病気で亡くなりました。わずか52歳でした。写真を撮ってから、たった10年のことです。\n今の私は、写真の父よりずっと年上になりました。自分にも子どもができ、父たちの世代が背負っていた暮らしや責任を、少しずつ理解できるようになりました。\n若い頃は、父はいつも自分よりはるかに年上の人だと思っていました。今になって初めて、写真の父が、今の私よりも若かったのだと気づきます。\n33年が過ぎ、写真は色あせていました。修復すると、海に色が戻り、父の顔もはっきりしました。\n技術は写真を修復できても、時間を巻き戻すことはできません。\n1993年の夏、北戴河の波が砂浜に寄せていました。\n父は、私の隣にいました。\nあの頃、私たちは二人とも、まだ若かった。\n","permalink":"https://zisai.com/ja/posts/beidaihe-summer-1993-with-my-father/","summary":"技術は写真を修復できても、時間を巻き戻すことはできません。1993年の夏、父は私の隣にいました。あの頃、私たちは二人ともまだ若かった。","title":"1993年の夏、北戴河で父と"},{"content":"朝、流水溝の入口で配車サービスの車を待っていました。スマートフォンで車の経路を見ていると、左側から誰かにそっと触れられました。\n驚いて、反射的に身を引きました。振り返ると、高齢の女性でした。\n「すみません、二六六病院行きのバス停は、どちらですか」\n二六六病院は、今の九八一病院の昔の名前です。懐かしい呼び名を聞いて、この辺りの方なのだろうと思いました。\nネットで高齢者にまつわる否定的な話をよく目にするせいか、まだ少し警戒しながら、その方の様子を見ました。\n黒い布靴に灰色のズボン、薄い赤の上着。古い布袋を肩にかけています。身なりは清潔でしたが、服は洗い込まれて白っぽくなっていました。特に赤い上着は、白い繊維が地の色から透け、淡いピンク色になっていました。\n髪は無造作にまとめてありましたが、乱れてはいません。目が青白く濁っていて、足元の道がよく見えていないようでした。\n警戒する気持ちは、だいぶ薄れました。\nただ、二六六病院へ行くにはどのバス停を使うのか、私にも本当に分かりませんでした。その日はグループの四半期会議で、朝から会社で準備することがたくさんありました。\n「この先が火神廟で……」と静かに言うと、\n「火神廟の交通詰所ですか」と返ってきました。\n一瞬、言葉が止まりました。火神廟の交通詰所といえば、私の記憶では小学生の頃までさかのぼる名前です。\n「いえ、この先の康熙帝の銅像です。交差点を右に曲がると、少し先に大きなバス停があります。そちらへ行って、もう一度聞いてみてください」\n「ありがとうございます。お金に恵まれて、長生きなさいますように。百歳まで生きられますように」\nAI生成の挿絵です。現場の写真ではありません。\n胸が痛くなりました。\n一人で道を尋ねる姿を見て、自分の家族、そして将来の自分を思いました。誰にでも、年を取る日が来ます。\nその方は何かつぶやきながら、一歩ずつ探るように進んでいきました。後ろから見つめる私の中には、さまざまな思いがありました。\n前方には、歩道に設置された駐車場の遮断棒がありました。近づいて、このままではぶつかりそうです。すぐ横の歩道上を、車もかなりの速度で通っていました。\n見ていられず、足早に追いかけ、体を支えて遮断棒と車を避けました。その方は戸惑い、私について足を動かすのも大変そうでした。何度か左右に動いて、ようやく点字ブロックの近くまで案内できました。\n「ありがとうございます。お金に恵まれて、長生きなさいますように。百歳まで生きられますように」\n何十年も前の記憶を頼りに、今の道を、一歩ずつ確かめながら歩いている。その繰り返される言葉は素朴で、真剣でした。その方が思いつく、精いっぱいのお礼だったのかもしれません。\n「どういたしまして。ゆっくり気をつけて」\n私は戻りながら、数歩ごとに振り返りました。その方は変わらず一歩ずつ、ゆっくり遠ざかっていきました。\n会社に着くと、何度も手を洗いました。私は少し潔癖なところがあり、人に触れた後に手を洗うのは習慣です。洗い終えても、足元を探りながら歩く姿が頭から離れませんでした。\nバス停まで送り届けたわけでも、最後にどのバスへ乗れたのかを確かめたわけでもありません。ただ、目の前の一つの障害を避ける手伝いをしただけです。\nできる範囲で、ということでしょうか。\nそれでも、この小さな出来事が心に残りました。\n私たちは普段、足早に歩きすぎて、歩道上の駐車場、行く手を遮る棒、点字ブロックが途切れずに通れるかどうかに、あまり気を留めません。横断歩道で少し歩みが遅いだけで、クラクションに何度も急かされる高齢の方にも。\n私も、いつも通る場所です。今日、その方と数歩動いてみて初めて、ほんの短い道が、こんなにも歩きにくいのだと感じました。\n高齢化社会を語るとき、最後にはこうした具体的な問題に向き合うことになります。どこでバスを待つか。どう障害物を避けるか。青信号の間に渡り切れるか。道がよく見えない人が一度外出するだけで、こうした場面に何度出会うのでしょう。\n日本の大学院で学んでいた頃に気づいた、障害のある方への配慮も思い出しました。その意味が、今はより具体的に感じられます。よく見えない人や動きにくい人が、少しでも心配を減らして、一人で外出できるようにすることです。\n午前中には、まだたくさんの仕事が待っていました。それでも「百歳まで」という言葉が、ずっと耳に残っていました。\n私たちも年を取り、歩みが遅くなり、目が見えにくくなったとき、安心して道を歩けますように。\n","permalink":"https://zisai.com/ja/posts/a-helping-hand/","summary":"何十年も前の記憶を頼りに、今の道を、一歩ずつ確かめながら歩いていました。","title":"できる範囲で、手を差し伸べる"},{"content":"承徳の中心部、火神廟の近くに馬市街という通りがあります。道幅はそれほど広くなく、店が立ち並び、人通りも多い場所です。このにぎやかな旧市街の一角に、私がよく通う小さな店「老房子小酒館」があります。\n店は小さく、外観もごく普通です。灰色のれんが壁に赤い看板、入口にはいくつかの提灯。凝った内装ではありませんが、清潔に整えられています。この辺りを知らなければ、通りかかっても特に気に留めないかもしれません。\nけれど、この小さな店は、もう20年以上も続いています。\nここが好きな一番の理由は、やはり料理がおいしいことです。\n承徳の人にとって、とろみをつけたたれで仕上げる伝統料理「熘菜」は身近なものです。肉の薄切りを使う「熘肉片」や「熘三様」は、火加減、たれのとろみ、口に入れたときの味わいが大切です。老房子の料理には土地らしさがあり、しっかりした味で、ご飯にもお酒にもよく合います。\n鶏肉とキノコの煮込みも、よく頼む家庭料理です。ほかにも、青唐辛子とピータンの炒め物、小さなマナガツオの煮込み、さまざまな土鍋料理など、試してみたくなる品があります。\nここの四川料理も、印象に残っています。\n特に鶏肉と唐辛子を炒めた「辣子鶏」は、かなり本格的です。北方の家庭料理を中心にした小さな店で、四川料理までおいしく作っているのは、うれしい驚きでした。\n料理に加え、店主の人柄も、通い続けたくなる理由です。\n親しみやすく、温かく迎えてくれて、細かいことにこだわりません。会計の端数をまけてくれたり、飲み物の持ち込みを受け入れてくれたり、持参した食材を調理してくれたり、飲み残したお酒を預かってくれたり。どれも気さくに応じてくれます。友人との話が弾み、帰りが少し遅くなっても、不満そうな様子を見たことがありません。\n一つひとつは小さなことですが、居心地のよさにつながっています。飲食店は商売である一方、人との関わりでは、こうしたささやかなことが心地よく感じられるものです。\nこの何年も、友人と集まるときには、よくこの店を思い浮かべてきました。\n3人、5人で料理をいくつか頼み、お酒を飲みながら近況を話す。あるいは、気軽に食事だけをする。どちらにも向いています。値段も手頃で、堅苦しさがなく、特別に構える必要もありません。\nほかの街から来た友人に、承徳らしい料理を食べられる場所を聞かれると、老房子を勧めることもあります。何組か案内しましたが、皆、味を気に入ってくれました。\nもちろん、承徳にはおいしい店がたくさんあり、それぞれに得意料理があります。老房子は一番有名な店ではないかもしれませんし、高級料理店でもありません。それでも、実直な料理、安定した味、気さくな店主、気持ちよく食べられる雰囲気という、この店ならではのよさがあります。\n街を知るには、名所旧跡だけでなく、路地に隠れた小さな食堂にも目を向けたいと、私はいつも思っています。\n街の味は、いちばん目立つ場所にあるとは限りません。\n承徳も、この何年かで大きく変わりました。新しい商業施設や飲食店が増え、旧市街も更新を続けています。それでも、老房子のように20年以上営んできた小さな店には、今も自分の居場所があります。\n承徳の食のすべてを代表するわけではありませんが、私にとっては、よく知る承徳の味の一つです。\nこれから時間があれば、普段通っている承徳の小さな店を、少しずつ記録していきたいと思います。順位をつけたり、わざわざ店巡りをしたりするのではなく、自分で食べ、訪れ、残しておきたいと思った場所を書くつもりです。\n街で覚えておきたいのは、山河や史跡だけではありません。路地の奥で食べる一食、そして、また来たいと思わせてくれる、なじみの顔もあるのです。\n","permalink":"https://zisai.com/ja/posts/chengde-laofangzi-tavern/","summary":"承徳の旧市街にある小さな食堂。20年以上続く日常のにぎわいと、なじみの味、そして人と人との温かな距離感があります。","title":"老房子小酒館——馬市街に隠れた、承徳の味"},{"content":"連休中、隆化県七家鎮で友人が営んでいる温泉施設「沐雲舎」に一泊してきました。\n七家鎮の幹線道路沿いにはにぎやかな温泉施設がいくつもありますが、私はむしろ、こちらの落ち着いた雰囲気のほうが好みです。\n5,000〜6,000平方メートルの敷地に、庭、菜園、テント、温泉、バーベキュー場、バスケットコートまであり、ゆったりと配置されています。\n一泊して、翌日には家に戻りました。\n帰り道、寛広スーパー麗水店の前を通ったので、ついでに洗車をすることにしました。\nそこで気づいたのが、ゴールド会員向けの特典がまた一つ増えていたことです。\n会員用の洗車スペースが2台分になっていました。\nこれなら、ほとんど並ばずに済みます。\n洗車を待ちながら、家族と簡単に計算してみました。\nゴールド会員の年会費は188元で、30元分が還元されるので、実質負担は158元。\n洗車は週1回利用できます。\n1年を52週として考えると、毎週使った場合、1回あたりは約3元です。\nしかも、単に水で流すだけではありません。\n所要時間は十数分ほどで、泡洗浄が2回、高圧洗浄、ワックス、送風乾燥まで含まれています。\n設備、水道、電気、消耗品、メンテナンスまで考えれば、3元で原価を回収できるとは思えません。\nもしこれが専門の洗車店なら、この価格では商売になりません。\n洗車専門店は洗車そのもので利益を出す必要がありますし、できればワックスや研磨、車内清掃などの追加サービスにもつなげたいはずです。\n主力サービスそのものが収益源でなければなりません。\nでも、スーパーは少し事情が違います。\n洗車は寛広の本業ではありません。\n「週1回」という設定にした理由も分かりやすい。\n会員に毎週一度、麗水旗艦店へ足を運んでもらうきっかけになるからです。\n車を洗えば、人も店まで来る。\nせっかくスーパーまで来たのなら、そのまま店内に入り、果物や野菜、牛乳、日用品などを買う可能性は高くなります。\n食品や日用品を中心に扱う小売企業にとって、洗車そのものが黒字かどうかは、必ずしも一番重要なことではありません。\n本業の周辺に便利さを加え、また来店したくなる理由をつくることのほうが、大きな価値を持ちます。\nつまり、単体だけを見れば明らかに「赤字」に見えるサービスでも、小売全体の仕組みの中で見ると、計算はまったく違ってくるわけです。\nここで、消費者心理についても少し面白いことを思いました。\n「年会費」という文字を見ただけで、\nお金を払ってまで会員になるの？ それならいいや。\nと感じる人は少なくありません。\nでも、別の計算をしてみると印象は変わります。\n一般的な洗車なら、300元で10回分を購入して2回分が付くとして、1回あたり約25元。\n一方、普段から寛広の麗水店を利用している人なら、ゴールド会員の洗車特典だけを見ても、実質1回あたり約3元になります。\n一般的な洗車料金のおよそ10分の1です。\n3元なら、今ではシェアサイクルに乗っても、それほど遠くまでは行けません。\nもちろん、実際に使う人にとって価値がある、というのが前提です。\n会員制度で一番もったいないのは、「元を取らなければ」と考えて、必要のない買い物までしてしまうことです。\nでも、もともと食材を買う、スーパーに行く、車も洗う。\nその三つが重なる人なら、こうした大手小売企業の会員特典は、少し丁寧に見てみる価値があります。\n私は小売企業の中で仕事をしているので、このあたりは実感があります。\nこうしたサービスの多くは、サービスそのもので利益を出すことだけを目的にしているわけではありません。\n駐車場、洗車、会員イベント、ポイント、休憩スペースなど、考え方はだいたい同じです。\n来店したときに「便利だ」「快適だ」「お得だ」と感じてもらい、また来てもらう。\n企業は来店客と評判を得て、消費者は実際の便利さを得る。\n双方にメリットがあるなら、それでいいのだと思います。\nこういう会員特典なら、遠慮なく活用していい。\n洗車を終えて家に戻り、車を地下駐車場に停めました。\n数日は乗らないつもりだったので、洗ったばかりの車に使い捨ての透明カバーをかけておこうと思いました。\nところが、かけてすぐに様子がおかしくなりました。\n長距離を走った直後でエンジンの熱がまだ残っていたうえ、洗車後の水分も残っていたため、透明カバーがみるみる膨らんでいったのです。\nまるで車全体を巨大な透明の風船で包んだような状態でした。\n数秒眺めて、すぐに外しました。\nどうやら「保護」も、急ぎすぎると逆効果になるようです。\n（笑）\n","permalink":"https://zisai.com/ja/posts/supermarket-membership-car-wash/","summary":"年会費188元、30元分の還元。週1回の洗車を使えば、1回あたり約3元。単体では赤字に見えるサービスも、小売全体で見ると違った意味を持ちます。","title":"1回約3元の洗車——スーパーの会員特典を別の角度から考える"},{"content":"この国慶節の休みも、また紫塞をいじっていました。\n最初は、前から少し気になっていたところを、休みの間に直すつもりだっただけです。ところが、手を動かし始めると止まらなくなりました。\nトップページ、メイン画像、ロゴ、ナビゲーション、Hugo、PaperMod、GitHub Pages、Cloudflare、DNS、CNAME、301リダイレクト……。一つずつ手を入れ、WeChatで共有できないという小さな問題まで調べました。\n今朝もう一度見直して、ようやく今回は一段落にしてもよさそうだと思えました。少なくとも、今気づいている問題は、ほぼ解決できました。\n小さな問題も、最後まで追ってみる この数日で特に印象に残ったのは、ウェブページをWeChatのカードとして共有する際の問題でした。\nページは普通に開ける。URLを直接送っても問題ない。ところがブラウザーから友人に共有すると、赤い感嘆符が出るのです。さらに不思議なことに、いったんモーメンツに投稿してから転送すると、うまくいきました。\nSafari、Chrome、Edgeでも試し、順に調べていくと、原因は共有用画像にありました。画像のファイルサイズが大きすぎたのです。圧縮し直すと、共有できるようになりました。\nこの数日で、ウェブ用画像は見た目を確認しながら、できるだけWebP、品質設定は82前後にする、という習慣もできました。Q82に特別な意味があるわけではありません。今の自分には、容量と見た目のちょうどよい折り合いです。\nいつか数字は忘れるかもしれません。でも、原因を追いかけた道筋は残る気がします。\n技術の細部には、そういうところがあります。答えは忘れても、たどり着くまでの過程は残る。\n仕事は使命、紫塞は自分の意思で動くもの 休みの間も、ずっとパソコンの前にいました。外から見れば、仕事中とあまり変わらないでしょう。でも、気持ちはまったく違います。\n仕事は、私にとって使命に近いものです。目標、期限、協働があり、使命感に突き動かされて達成を目指します。\n紫塞には、どんな形にしなさいという指示も、いつまでに終わらせなさいという期限もありません。メイン画像が気に入らなければ直す。ロゴが少し違うと思えば調整する。分からないことがあれば、もう何度か試してみる。\nやるかどうか、いつやるか、どこまでやるか。自分で決められます。私は、この状態が好きです。制約が少ないときのほうが、工夫が生まれることも多い。基準も要求もありますが、それを決めるのは自分です。\n一つの作品を作るように 作業を続けるうちに、単なるサイトの保守というより、自分の作品を作っているように感じるようになりました。\n画像の色をもう少し淡くするべきか。ロゴの大きさはどうか。余白は足りているか。承徳らしさをどう自然に取り入れるか。ボタンの位置は心地よいか。数十KB増やすだけの価値が、その画像にあるか。\n一つずつは小さなことです。それが重なると、全体のまとまりになります。\n少し木工に似ていて、写真の仕上げにも似ています。人には、何を変えたのか分からないかもしれません。それでも自分には分かるし、もう少しよくできると思ってしまいます。\nそんなとき、コード、画像、構造、速度、細部は、すべて作品の一部になっています。\n28年が過ぎて 紫塞明珠網を作り始めたのは1998年でした。当時はインターネットそのものが新鮮で、掲示板、チャット、ウェブページ、サーバー、何もかもが調べてみたい対象でした。\n28年後、技術はすっかり変わりました。今触っているのは、Hugo、GitHub Pages、Cloudflare、WebP、OG画像、そしてさまざまなフロントエンドの細部です。サイトも、当時の姿とは大きく違います。\nそれでも、変わらないものがあるようです。問題を見つけると、やはり理由を知りたくなる。よくないところがあると、やはり少し直したくなる。\nずっと残っていたのは、一つのものを、もう少しきちんと仕上げたいという習慣なのかもしれません。\n時間は流れても、その気持ちは変わらない。課題も締め切りもありません。ただ、自分の中にある姿へ、もう少し近づけたいだけです。\nここで、いったん区切る 今朝、サイトをもう一度ひと通り見ました。今思いつく問題は、ほぼ片付きました。\nもちろん、ウェブサイトに本当の完成はありません。これからも書き、直し続けるでしょう。でも、この段階では少し止まってもよさそうです。\n一つのことに深く集中できるのは、一つの力です。28年間好きで続けられることも、その人らしさなのでしょう。運動も、英語も、日本語も、情報技術も、続けてきました。\nそして、ちょうどよいところで止まれることも、きっと大切な力です。\n2026年国慶節の紫塞リニューアルは、ここでいったん区切りにします。\n午後は温泉へ。\nパソコンを閉じます。\n次の問題は——現れてから、また考えましょう。\n","permalink":"https://zisai.com/ja/posts/national-day-zisai-rebuild/","summary":"国慶節の休みに、紫塞をもう一度作り直しました。仕事には責任があり、紫塞には自分の好奇心がある。技術も見た目も細部も、いつしか一つの作品の一部になっていました。","title":"紫塞28年目に思うこと——技術は変わっても、習慣は残る"},{"content":"先日、子どもの頃からの友人たちと食事をしました。\nいつの間にか、避暑山荘にあった象の滑り台の話になりました。\nYour browser does not support the video tag. 何人かが、ほとんど同時に言いました。\n「あの象の滑り台、覚えているよね？」\nもちろん、覚えています。\n話し始めると、ぼんやりしていた光景が、一気によみがえってくるようでした。\n山荘には、児童遊園があった 今の若い人には知らない方もいるでしょうが、かつて避暑山荘には児童遊園がありました。\n月へ向かうロケット、象の滑り台、シーソー、回転椅子、回転するドラム……。\n隣には動物園もありました。\n当時、承徳で育った子どもにとって、避暑山荘は教科書に出てくる「皇帝の庭園」というだけの場所ではありませんでした。\n私たちにとっての、身近な公園でもあったのです。\n春の遠足、週末、親戚が遊びに来たときにも、よく行きました。\n数角の小銭と、何袋かのお菓子があれば、それだけでうれしかった。\n私たちの世代に、児童遊園で一番印象に残っているものを尋ねれば、多くの人が似た答えを返すと思います。\n月へ向かうロケットと、あの象の滑り台です。\n動物園の動物たちの話だけでも、長く話せそうです。何が飼われていたか、どの檻がどこにあったか、子どもの頃に何が怖かったか。コメント欄で少しずつ思い出をつなぎ合わせられるかもしれません。\n私たちは、山荘の近くで育った 私は南営子小学校に通っていました。\n双橋区の子どもたちにとって、春の遠足先の選択肢はそれほど多くありませんでした。避暑山荘は、特によく行く場所の一つでした。\n大人には史跡を見学する場所でも、子どもにはまったく別の世界でした。\nどこで走れるか。動物はどこにいるか。滑り台はどこか。お菓子はどこで買えるか。関心があったのは、そんなことです。\n文園獅子林にも、特別な記憶があります。小学生の頃、修復・復元のために学校で寄付を集めたことを覚えています。何年だったか、いくらだったかは曖昧ですが、おそらく1、2元ほどでした。\n振り返れば、古い建物は世代から世代へ守り継がなくてはならないのだと、初めて気づいた機会だったのかもしれません。\nやがて、児童遊園は姿を消した 1994年、承徳の避暑山荘と外八廟が世界文化遺産に登録されました。\nそれ以降、世界遺産として広く知られるようになりました。承徳のものであると同時に、世界のものになったのです。\n子どもの頃に親しんだ遊具や動物園など、文化財の景区としての役割に合わない施設は、順に姿を消していきました。\n文化財保護の観点からは、避けられないことだったのでしょう。それでも承徳で育った子どもとしては、少し寂しさが残ります。\n消えてしまうと、もう見つからないものがあります。\nあの象の滑り台も、その一つでした。\nもう一度「作って」みたかった この数日、夜になるとネットで資料を探しました。\n古い写真を探し、以前の画像を見返し、もとの姿を懸命に思い出しました。\n資料は多くありません。細部の多くは、記憶から少しずつ組み立てるしかありませんでした。\nそこで、AIであの風景を再現してみることにしました。まず象の滑り台を、そして周囲の環境を、少しずつ補いました。\n遠くには、当時の青少年宮、避暑山荘の宮殿一帯の建物があります。\n中央の花壇には、多くの人が覚えている「小蘿蔔頭」と呼ばれた幼い烈士、宋振中の像があります。小さな子が両手で蝶を包み、遊ぶ子どもたちを静かに見つめていました。\n今思えば、それも一つの追悼だったのでしょう。\nその手前に、数え切れないほどの子どもたちが遊び、表面がすり減った象の滑り台がありました。\n主題を際立たせるため、滑り台は手前に置きました。当時の大きさの比率や位置に完全に一致しているとは限りません。それでも、ひと目見た人が、すぐにこう思ってくれることを願いました。\n「そう、これだ」\n15秒のために、4、5時間 静止画を動画にすると、別の問題が出てきました。\nAIが人の動作や建物の形を勝手に変えてしまうのです。滑り台が変形し、像が動き、子どもの手足にも奇妙な変化が起きました。\n生成後はFinal Cut Proに取り込み、一コマずつ細部を調整しました。\n完成した動画は、わずか十数秒。資料探し、画面の再現、動画生成、仕上げまで、4、5時間ほどかかりました。\n出来上がったものをWeChatの動画チャンネルに投稿しました。\n自分の記憶を残したかっただけでした。それが、思いがけず再生数を伸ばしていきました。\nみんなが覚えていたのは、同じ場所だった 何より心を動かされたのは、再生数よりもコメントでした。\n子どもの頃、ここで遊んだという人。ロケットを覚えている人。動物園を思い出す人。学校の遠足はここだったという人。\n80歳の方も、長い思い出を書いてくださいました。私たちとは違う時代なのに、学校、先生、遠足、小銭、何袋かのお菓子と、同じ懐かしいものが語られていました。\n小さな児童遊園がつないでいたのは、一世代だけではなかったのです。何世代もの承徳の子ども時代でした。\n当時の子どもたちは、今や北京、上海、広州、深圳、さらには海外へと散らばっています。退職した人、働き続ける人、子どもがもう大人になった人もいます。\nそれでも画面に象の滑り台が現れると、何十年もの時間が十数秒に縮まったようでした。\nみんな、一瞬で子どもの頃に戻ったのです。\nAIの面白さは、こんなところにもあるのかもしれない AIの話題は、効率、生産性、代替、変革が中心です。でも、この動画を作って、別の価値にも気づきました。\n消えてしまったものを、もう一度見せてくれることです。\nきちんと撮影されず、高画質の映像もなく、資料さえ見つけにくい風景が、数枚のぼやけた写真、文章、人々の記憶から、少しずつ姿を取り戻します。\nもちろん、本物の歴史映像ではありません。そう扱うべきでもありません。\nそれでも、「記憶の再現」にはなります。\n画面が動き始めるとき、取り戻しているのは滑り台だけではないのかもしれません。ある午後、春の遠足、小銭で買ったお菓子、そばで待つ父や母、そして永遠に続くと思っていた子ども時代も。\nYour browser does not support the video tag. 今の避暑山荘は、世界各地から人々が訪れる世界文化遺産です。\nでも、多くの承徳の人にとって、もう一つの顔があります。子どもの頃の公園、春の遠足先、何世代もの子どもたちに共通する風景です。\n今どこに暮らしていても、どれほど遠く離れていても、あの山荘と庭園は、時と距離を越えて私たちをつないでいます。\n消えてしまっても、ずっと記憶に残る場所があります。\n","permalink":"https://zisai.com/ja/posts/chengde-elephant-slide-childhood-memory/","summary":"かつて避暑山荘にあった児童遊園。その象の滑り台を再現した映像が、何世代にもわたる街の記憶を呼び起こしました。","title":"承徳の皆さん、避暑山荘の象の滑り台を覚えていますか"},{"content":"🌬️ ITは空気のようなもの——意識しなくても、なくてはならない 「ITは空気のようなもの」。これは大げさな比喩ではなく、現実を表しています。多くの企業では、日々の業務でITの存在をほとんど意識しません。それでも、ITがなければ業務は円滑に進みません。\n🏢 見えないからといって、重要でないわけではない 空気は目に見えなくても命を支えています。ITも同じように、企業のあらゆる業務を支えています。\n🖥️ システムが裏側で動き、受注処理、在庫更新、決済・精算を進めています。 📊 システム間を流れるデータが、判断の方向と根拠を示します。 🔗 ネットワークとセキュリティが、業務の中断や脅威から企業を守ります。 ITに問題が起きると、企業は酸素を失った人のように、呼吸も生存も難しくなります。\n💼 コストセンターから価値を生む原動力へ 従来型の企業では、ITはコストセンターと見なされがちです。営業のように直接収益を生むわけではなく、その価値が見えにくいからです。しかし、デジタル化に取り組む際には、ITの役割が極めて重要になります。\n🤖 業務を自動化し、人件費を抑える。 📈 データに基づく意思決定で、運営効率を高める。 🛍️ 技術によって新しい小売の場面を実現し、新たな成長機会をつくる。 こうしてITは、成長を促す力になります。\n🌱 見えない価値ほど、深く長く効く 空気は見えなくても、どこにでもあります。ITも目立たずに、全体を支えています。目に見えるかどうかより、なくてはならないものとしてITを捉えたとき、技術の価値が本当に理解されるのでしょう。\nITの使命は、企業が「呼吸」を続ける力を持てるようにすることです。\n💡 もしかすると\n毎日、空気に感謝することはないかもしれません。それでも空気はいつもそばにあります。同じように、企業は毎日ITを話題にしなくても、ITのない世界では、すべてが立ち止まってしまいます。\n","permalink":"https://zisai.com/ja/posts/it-like-air/","summary":"受注、在庫、決済、判断を陰で支えるシステム。ITの使命は、企業が呼吸を続けられるようにすることです。","title":"ITは空気のようなもの——意識しなくても、なくてはならない 🌐"},{"content":"紫塞明珠網は1998年、承徳で生まれました。ダイヤルアップ、静的HTML、メール、チャット、掲示板が、多くの人にとって最初のインターネットの記憶だった時代です。地域情報サイトからコミュニティ、個人ブログへと技術や形式は変わっても、記録と共有は続いています。ここに集めた画像は各時期の画面や機能、デザインを伝えるもので、完全な発展年表ではありません。\n1998年からの出発 1998年、紫塞明珠網を作り始めました。通信速度は限られ、文章と簡単な画像が中心で、HTMLを直接書き、多くの機能を自分で試行錯誤していました。地域のサイトは情報発信に加え、インターネットを知り、交流する新しい窓でもありました。\n1998年：初期のページ デザインは素朴でしたが、情報発信と交流はすでに重要な要素でした。今では原始的に見える技術にも、当時のネットらしさが残っています。\n1999年：コンテンツとユーザー機能 利用者が増えるにつれ、ナビゲーション、情報分類、ユーザー管理が発展しました。閲覧だけでなく登録して交流することで、コミュニティとしての性格も強まりました。\nポータルとネットコミュニティの時代 21世紀に入ると、個人ホームページ、メール、掲示板、チャット、画像がサイトの重要な機能となりました。紫塞もこの時期を経験しています。以下の年表示は保存資料に従ったもので、各機能がその年に初めて公開されたことを示すものではありません。\n2000年：個人ホームページとサービス SNSが普及する前、自分のページは自己表現の大切な手段でした。自分だけのウェブページを持つことには、大きな達成感がありました。\n2001年：掲示板と交流 掲示板は地域のネットで特に活気のある場所でした。暮らし、技術、文学、街について語り合い、ハンドルネームだけの関係から実際のつながりが生まれました。\n2002年：オンラインの会話 チャットはリアルタイム交流への試みでした。今では普通のことも、当時は多くの人がネット上の交流を知る入口でした。\n2003年：画像とマルチメディア 通信環境が改善し、豊富な画像やマルチメディアを掲載できるようになりました。承徳の風景、地域の暮らし、利用者の作品にも多様な表現の場が生まれました。\n2004年：運営と商業的な試み 地域サイトは広告や情報サービスを模索しました。技術のほかに、サーバー、回線、保守、継続運営の費用にも向き合う必要がありました。\n2005年：動画への挑戦 当時の回線と技術の制約から動画は今ほど普及していませんでしたが、コンテンツの変化をすでに予感させていました。\n2006年：Web 2.0の時代 利用者の参加、共有、交流が重要になりました。管理者だけでなく、利用者もコンテンツの作り手になっていきました。\n2007年：関心とコミュニティ 写真、文学、暮らし、地域文化など、共通の関心で人々が集まり、ネットの交流が日常へと溶け込んでいきました。\nモバイルインターネットがもたらした変化 2008年以降、スマートフォン、モバイル回線、交流プラットフォームの発展により、情報の入手や交流の仕方が変わりました。ポータルや掲示板は新たな競争に直面し、固定幅のページからモバイル対応へと移っていきました。\n2008年：モバイルアクセスの模索 モバイル端末の発展が、画面サイズ、ページ構造、アクセス効率を見直すきっかけとなりました。\n2009年：情報整理と推薦 ネットの情報が増えるにつれ、関心のある内容を見つけてもらうことが、設計上の重要な課題となりました。\n2010年：変化に向き合う従来のコミュニティ SNSの発展は掲示板の利用習慣を変えました。更新と利用者の参加をどう保つかは、地域サイトにとって長期的な課題でした。\n2011年：画面と利用体験 ウェブ技術の発展に伴い、レイアウト、ユーザー向け画面、操作の設計が重要になりました。\n2012年：端末をまたぐアクセス PCとモバイルの併用が進み、レスポンシブデザインやサイト内検索が注目されるようになりました。\n2013年：コミュニティ機能と情報管理 従来のコミュニティも、情報の整理や交流をより便利にする方法を探し続けていました。\n2014年：初期インターネットを振り返る モバイル時代に入り、初期のデザイン自体がデジタルの記憶になりました。見慣れたページ、掲示板、ハンドルネームには、一世代の青春が残っています。\n2015年以降：個人ブログへ 2015年前後から、紫塞の中心を個人の記録と共有へ移しました。地域ポータルやコミュニティより、技術の実践、職歴、暮らしへの思い、街の記憶を綴る場所になっていきました。\n2015年：個人ブログの段階 形式と読者は変わっても、独立して考え、自由に表現し、技術を実践する場であることは同じです。かつては街とネット仲間を、今は個人と時代の関係を記録しています。\n2026年：紫塞の再整理 2026年、HugoとカスタマイズしたPaperModを使って、ページ構造、歴史資料、画像、サイトの標識を体系的に整理・再構築しました。速度や見た目に加え、蓄積した文章、画像、公開資料をまとめ、価値ある記録を残すことが目的です。手書きHTMLから静的生成、Git、クラウド配備へと道具は変わりました。それでも、サイトに時間をかけたい気持ちは変わらず、技術の習慣であると同時に暮らしの一部でもあります。\n歴史画像について 画像は以前保存・整理したサイト資料に由来します。初期の資料は十分に残っておらず、一部の作成時期、元のURL、対応する版は引き続き確認が必要です。\n年表示と順序は元の資料に従っています。 表示年は必ずしも実際の撮影年ではありません。 後年の整理、再構築、模式的な資料が含まれる可能性があります。 独立した確認のできていない機能の公開時期を、確定した史実とは扱いません。 元のページ、ウェブアーカイブなど信頼できる資料が見つかれば、補足・修正します。 完全な年表を作ることより、保存する価値のあるページをできる限り正確に示したいと考えています。\nこれからも 1998年から2026年まで、28年が過ぎました。ダイヤルアップから高速回線へ、ポータルと掲示板からアプリとAIへ。多くのサイトが姿を消し、新しいものが生まれました。紫塞も変わりました。それでもドメインと文章が残っていれば、記録する価値のある物語を保存する場所は続きます。\n山河を綴り、歳月を刻む。\n紫塞は、これからも続きます。\n","permalink":"https://zisai.com/ja/posts/zisai.com/","summary":"1998年に承徳で始まった紫塞明珠網。保存されたページを通して、地域サイトから個人ブログへの変化を振り返り、承徳とインターネット、個人の歩みを残します。","title":"紫塞明珠網：1998年から今日までのウェブの記憶"},{"content":"技術の実践者 · 小売業のデジタル化に携わる者 · 紫塞明珠網の創設者\nこんにちは、**沈楠（Shen Nan）**です。\n現在は寛広控股集団有限公司の取締役・副社長・CIOを務め、日本の桜美林大学大学院で情報学修士号を取得しています。通信部隊、通信事業者、そして小売企業へ。30年以上にわたり、ネットワーク、ソフトウェア、データと、それを使う人々に関わってきました。\n1998年に、後に**紫塞明珠網**と呼ばれるサイトを作り始めました。今も運営を続け、技術、小売、承徳、そして日常の残しておきたい小さな出来事を綴っています。\nコードを書くことも、具体的な問題を考え抜くことも好きです。技術の名前は変わっても、考え方は同じです。問題を理解し、分解し、できる限りシンプルで信頼できる技術で解決すること。\nデジタル名刺（中国語） · メール · GitHub · 短い紹介文 · 詳しい経歴と資料\n今、関心を持っていること 小売DXとAIの活用： システム、データ、AIを実際の業務に取り入れ、安定性、効率、コスト、成果を重視しています。 基盤と技術の実践： クラウド、IoT、データセキュリティ、災害復旧、ソフトウェア開発を探究し、自分でもコードを書き、システムを保守しています。 紫塞と地域のインターネットの記憶： 旧アドレス、旧ページ、公開記録を整理し、承徳の初期インターネットの足跡をたどれるようにしています。 執筆と日常の観察： 具体的な小さな問いから、技術、経営、暮らしを考えています。 紫塞網について 1998年に始まった紫塞は、ポータル、掲示板、チャット、ブログを経て、PC、ブロードバンド、モバイル、AIという時代の変化を見てきました。\n今の zisai.com は、私個人のデジタルな居場所です。\n技術： ソフトウェア、ネットワーク、サーバー、Hugo、Go、AI、具体的な実践。 小売： 現場の小さな課題から考える、デジタル化と経営の観察。 承徳： 避暑山荘、熱河、古い街、インターネットの往事と地域の記憶。 暮らし： 旅、車、運動、日々ふと浮かぶ疑問。 昔のこと： 消えかけている個人や街の記憶を整理し、残すこと。 記録に値するのは、大きな出来事ばかりではありません。人生を形作るものの多くは、そのときは何でもないと思っていた小さな出来事なのだと感じます。\n山河を綴り、歳月を刻む。\n技術と暮らし 今もコードを書くこと、新しい道具や技術を試すことが好きです。Go、Python、SQL、Linux、Docker、Kubernetes、Hugo、クラウド、仮想化、ネットワーク・情報セキュリティ、IoT、データ分析、大規模言語モデル、AIなどに取り組んでいます。\n技術に対する好みを一言にするなら、\nできる限りシンプルな論理で、複雑な問題を解く。\n技術以外では、散歩、ドライブ、音楽、魚の飼育、蘭の栽培、そして一人で静かにサイトをいじる時間が好きです。\n1998年に紫塞を作り始めました。今も、一つのページ、一枚の画像、数行のコードを何度も調整しています。技術も道具も変わります。好奇心と、記録する習慣は、これからも残っていくのでしょう。\n旅行も好きです。これまでにアイスランド、スイス、日本、韓国、オーストラリア、タイ、マレーシア、シンガポールを訪れました。サバでのダイビング、レイキャビクでの山歩き、シドニーでのランニングも思い出です。慣れた環境を離れ、各地の風景と日常を見ることも、仕事以外の楽しみです。\nマラソンと運動の経験 承徳や北京などで、フルマラソンとハーフマラソンに参加してきました。\n2016年10月15日・承徳国際マラソン： 42.195km、ネットタイム 4時間28分21秒。自己ベストです。 2017年10月29日・石家荘（正定）国際マラソン： 42.195km、ネットタイム 4時間52分48秒。 その他： 承徳、北京のハーフマラソンにも出場しましたが、当時の記録はまだ見つかっていません。 マラソン成績の画面記録（中国語）。上記2回のフルマラソンの成績は、中国マラソン公式サイトで確認できます。\n講演と交流 小売DXやインターネット業界の交流に参加し、通信、基盤、企業デジタル化の実務経験をもとにお話ししています。近年の講演には、次のものがあります。\n2025年： 地域小売業のデジタル化への道——情報技術がもたらす革新と変革。中国小売デジタル化年会のFMCG業界デジタル化フォーラム。 2026年： 地方市場の企業におけるデジタル化とAI——選択と実装。第9回小売デジタル化年会・デジタルインテリジェンスエコシステムフォーラム。 地域小売DX、企業でのAI活用、基盤、データセキュリティ、地域のインターネット史について、メールでお気軽にご連絡ください。\n短い紹介文 会議、イベント、取材での紹介用に：\n沈楠。寛広控股集団有限公司の取締役・副社長・CIO、紫塞明珠網の創設者。日本の桜美林大学で情報学修士号を取得。1990年代から通信、インターネット、ソフトウェアの実践に携わり、2014年に小売業へ。企業情報化、小売DX、基盤、データセキュリティ、AI活用に継続して取り組んでいる。1998年に紫塞明珠網を作り始め、現在も運営と執筆を続けている。\n詳しい経歴と資料 以下に職歴、技術プロジェクト、社会活動、表彰、公開資料をまとめています。プロジェクトと個人的な回想は私自身による整理です。第三者の記録には参照先を付けています。\n通信からインターネットへ 技術との関わりは1990年代に始まりました。\n1993年に通信部隊に入り、無線通信、単側波帯（SSB）、両側波帯（DSB）、コンピューター、データ通信に触れました。インターネットがまだ普及していなかった頃、接続といえば無線、シリアルポート、モデム、そして1対1のデータ伝送でした。\n1995年頃にはC言語で通信プログラムを書き始め、BBS、ダイヤルアップ、初期のオンラインコミュニティにも触れました。1997年以降はWebやネット上の情報サービス、初期のインターネットアプリケーションへと関心が広がりました。\n1998年に通信事業者へ入社。同じ年に、後に紫塞明珠網となるサイトを作り始めました。それ以来、インターネットは仕事と暮らしを貫く一本の線になっています。\n紫塞明珠網と承徳の初期インターネット 紫塞明珠網は1998年に始まりました。 最初は、本当に小さなサイトでした。\nブロードバンドの普及とともに、ポータル、掲示板、チャット、ブログ、フリーマーケット、ソフトウェア配布、動画・音楽サービスなどへと広がり、承徳で早くからネットを使っていた多くの人にとって、共通の思い出となりました。\n2001年頃にはPHP、MySQL、C++、ASP、Pascalなどを使い、紫塞フォーラム、チャット、ブログ、フリーマーケット、地域向けメッセンジャー「FreeICQ」、MUD『侠客行』、ブロードバンド向け映像・音楽サービスを開発・運営していました。\n2002年には、承徳の地域文化を背景にした多人数参加型オンラインゲーム**『熱河風雲』**を開発しました。\n今から見ると素朴な仕組みですが、地方のインターネットがダイヤルアップからブロードバンドへ移る過程を記録するものです。同時に、開発から運用までを経験した、私にとって最初のまとまった実践でもありました。\n今も確認できる旧アドレス、旧ページ、第三者の記録を少しずつ整理しています。ネットの足跡、『夢幻西遊』コミュニティ旧址（中国語）、CCTV中秋節承徳会場ネット中継旧址（中国語）をご覧ください。\n通信、ブロードバンド、IDC 1998年から2014年まで通信事業者で働き、コンピューターやデータ通信から、ブロードバンド網、業務システム、IDC、インターネット事業の運営へと担当が広がりました。\nADSLの業務システム、ネットワーク運用システム、映像配信基盤、IDC事業、コンテンツ事業者との連携などに参加し、また責任者として取り組みました。\n2003〜2006年頃には、『科洛斯』『坦克宝贝』、網易の『夢幻西遊』『大話西遊』などの地域サーバー群の導入・運用に携わりました。複数のサーバー群は、承徳にちなむ**「避暑山荘」**でした。\nゲームアカウントの安全性が課題となった時期には、動的パスワードによる認証システムも設計・開発しました。\n2009年頃からはIDC、ICT、インターネット基盤に関する仕事が増え、騰訊、優酷、アリババなどの関連事業の承徳への展開を進めました。ネットワーク、システム、データセンター、高可用性設計への理解を深めた時期です。\n通信業界から小売業のデジタル化へ 2014年、長年勤めた通信事業者を離れ、承徳寛広控股集団の副社長・CIOとして入社し、後に取締役も兼任するようになりました。\n環境は変わりましたが、向き合う問いには共通点がありました。システムをどう安定させるか。データをどう実際の価値につなげるか。オンラインと店舗をどう結ぶか。システム間の分断をどう減らすか。安全性、性能、コスト、業務効率をどう両立させるか。\nその後の10年以上は、企業情報化、小売業のデジタル化、基盤、データ、セキュリティ、ソフトウェア開発に取り組んできました。EC、プリペイドカード、BI、ハイパーコンバージド基盤、クラウド、IoT、サイバーセキュリティ、災害復旧、WeChat関連サービス、AIなどの仕組みを段階的に整備してきました。\n主な技術プロジェクト 年 プロジェクト 内容・技術 1998年〜 紫塞明珠網 ポータル、掲示板、チャット、ブログ、フリーマーケットを展開。現在は個人サイトとして運営。Web、PHP、MySQL、Hugo。 2001年 ADSL業務受付・処理システム ブロードバンドの受付・処理を効率化するシステムを自主開発。ASP、SQL Server。 2002年 『熱河風雲』 承徳の地域文化を背景にした多人数参加型ゲームの開発・運営。Pascal、ネットワークプログラミング。 2003年 承徳ブロードバンド映像配信基盤 動画のオンデマンド配信とストリーミング。RealServer、Linux、PHP。 2003〜2006年 オンラインゲーム地域サーバー群 複数タイトルの承徳サーバー群の構築・運用に参加。Linux、IDC、ネットワーク運用。 2006年 動的パスワード認証 ゲームアカウントの保護を目的に認証方式を設計。C++、セキュリティ認証。 2016年 ハイパーコンバージド・ハイブリッドクラウド基盤 サーバー、計算資源、ストレージ、仮想化を統合。VMware、Docker、Kubernetes。 2016〜2021年 オムニチャネル電子プリペイドカード カード管理、電子利用処理、取引保護を整備。GoによるQRコードの動的暗号化。 2020年 ESRS健康確認システム 感染症対策を補助する店舗の健康確認・データ管理システムの開発に参加。C++、MySQL。 2023年 グループ共通IoT基盤 コールドチェーン、エネルギー、環境、設備、防犯の接続・監視。Python、MQTT。 2024年 中核データの災害復旧 システム・機器をまたぐバックアップと復旧基盤。高可用性、データ保護。 2025年 寛広商業デジタル管理プラットフォーム 小売業務・データ・管理の統合基盤。中国百貨商業協会の年間優秀小売デジタル化実践事例に選出。2025年中国国際デジタル経済博覧会でデジタル技術革新賞も受賞。分散設計、データ基盤、AI。 2025年 AI人材評価システム 大規模言語モデルによる評価データ分析、評価文生成、フィードバック支援を試行。 30年以上続く技術の歩み 1993〜1997年：無線通信とコンピューター。 SSB・DSBから、コンピューターとデータ通信へ。 1998〜2001年：インターネットとWeb。 通信事業者に入り、紫塞を開設。Perl、ASP、PHP、MySQL、C++などを学び、活用。 2002〜2008年：ブロードバンド、コミュニティ、ゲーム。 『熱河風雲』、チャット、掲示板、映像配信、ゲームサーバー、認証システムに取り組む。 2009〜2014年：IDCと通信事業。 IDC、ICT、データ通信、インターネット事業の導入と関連する運営管理に参加。 2014〜2020年：企業情報化とクラウド。 小売業でEC、カード、BI、仮想化、ハイパーコンバージド、企業クラウドを整備。 2021〜2024年：IoT、データ、セキュリティ。 Go、IoT、企業・決済セキュリティ、WeChat、中核データの災害復旧を実践。 2025年以降：AIと小売業のデジタル化。 大規模言語モデルやデータ分析を実際の業務に応用。 技術の名前は変わり続けます。変わらないのは、新しい技術への好奇心と、それを実際の問題解決に使いたいという気持ちです。\n学歴 日本に留学し、桜美林大学大学院で学び、2021年に情報学修士号を取得しました。\n留学は、20年以上続けてきた実務を研究の視点から見直す機会でした。また、身近で具体的な問題から考え始める姿勢も深まりました。大きな概念より、観察し、確かめられる小さな問いに惹かれます。その姿勢は、今の紫塞での書き方にもつながっています。\n職務・社会活動 現在 承徳寛広控股集団：取締役・副社長・CIO 承徳寛広超市集団：監事 中国連鎖経営協会デジタル技術応用委員会：委員 中国百貨商業協会デジタル化工作委員会：委員 承徳市インターネット協会：副主席・執行主席 承徳市インターネット業界労働組合連合会：主席 承徳市警察協会：理事 承徳市双橋区電子商取引協会：会長 これまで 中国聯通承徳市分公司：部門科長 同社共産主義青年団委員会：書記 1993〜1997年：通信部隊に勤務 表彰・業界での経験 これまでに、全国優秀CIO、中国国際デジタル経済博覧会デジタル技術革新賞、中国通信企業協会の通信業界QCサークル活動診断師、河北省「知識型従業員」、承徳市「沈楠イノベーションスタジオ」などの認定・表彰を受けました。\n承徳市では「優秀青年崗位能手」「最美科技工作者」「商務発展専門家」「十佳科普工作者」にも選ばれています。\n表彰も一つの記録です。ただ、私自身は、作ったシステム、書いたコード、そして問題が解けたときの感覚を、より大切に覚えていたいと思っています。\n公開資料 以下は中国語プロフィールに掲載された参照先です。資料の多くは中国語で、個人的な回想と第三者の記録を区別しています。活動の発生日とページの公開日は異なる場合があります。\n2013年： 河北新聞網が、中国聯通承徳市分公司の青年団委員会書記として公益活動に参加したことを記録しています。 2016年： 承徳市商務局の第1期商務発展専門家名簿に、寛広の高級ソフトウェアエンジニア・システムアーキテクトとして掲載されました。別の報道には、4月21日に隆化県荒地郷の小学校への寄付活動に寛広代表の一人として参加したことが記されています。 2018年： メトラー・トレドの業界記事は、IT集中管理、電子棚札、オンラインと店舗の連携、独自アプリ「寛広慧雲」、複数業態の運営を紹介しています。また、承徳市文物局サイトが11月8日に公開した第1回インターネット年会の記事には、承徳寛広信息技術有限公司総経理としての講演が記されています。活動の実際の年は、なお確認が必要です。 2020年： 中国科学技術協会と河北省科学技術協会がESRSの取り組みを記録しています。私が単独で全体を開発したのではなく、インターネット協会会員の技術チームを率いて開発を組織しました。2月27日の報道では、Win32/Win64クライアント、Access/SQLite・MySQL、Go・Pythonサーバーを用い、承徳や北京など10以上の組織に無償提供し、累計50万回以上の本人確認を実施したとされています。河北省の人物紹介には紫塞明珠網の創設も記載されています。 2023年： 12月22日に承徳市インターネット業界労働組合連合会が成立。参照先には成立の経緯と私の主席就任に関する記録があります。別の記事は、6月8日に寛広で行われた仲裁・契約に関する交流への参加を記録しています。 2020〜2026年： 中国百貨商業協会の資料は、2020年の感染症流行期のオンライン・店舗連携と会員施策、2024年の年会参加、前述の2025年・2026年の講演、デジタル管理基盤の優秀実践事例選出を記録しています。同基盤は2025年にデジタル技術革新賞も受賞しました。 2026年： 9月の『承徳日報』の取材は、承徳のビジネス環境、チェーン小売、地域商業、市民向けサービスを取り上げています。 出典と参考資料 2026｜承徳日報の取材 2026｜第9回小売デジタル化年会 2025｜デジタル技術革新賞 2025｜優秀小売デジタル化実践事例 2025｜FMCG業界デジタル化フォーラム 2024｜小売年会の登壇者紹介 2024｜小売デジタル化工作委員会の組織構成 2024｜承徳市政府大事記：業界労働組合連合会 2023｜承徳仲裁委員会との交流 2023｜百度百科：業界労働組合連合会 2020｜中国科学技術協会：ESRS 2020｜河北省科学技術協会の人物紹介 2020｜承徳市科学技術協会の報道 2020｜ESRSの開発と運用 2020｜感染症流行期のCIOとオンライン小売 2018｜メトラー・トレドの業界取材 2018｜第1回承徳インターネット年会の報道 2016｜小学校への寄付活動 2016｜承徳市商務発展専門家名簿 2013｜河北新聞網：青年団の活動 中国マラソン：大会成績 百度百科：沈楠 GitHub：Mythflair 個人の経験（中国語記事） 古いメモから振り返る職歴 若い人に機会を：網易との協業 2008年杭州での華為研修 歳月の記憶：厦門のIBM会議 エンジニアの30年 石基グループ顧客大会の感想 2013年以前の一部の表彰と経歴は、主に紙の証書や歴史資料に残されており、整理を続けています。\n連絡先 紫塞網： zisai.com GitHub： Mythflair メール： shennan@zisai.com 昔の紫塞を訪れたことのある方も、技術、承徳、インターネットの思い出、暮らしの小さな疑問に関心のある方も、お気軽にご連絡ください。\n2026年10月19日更新。中国語プロフィールに合わせて改訂。組織名・役職名は原文の意味に沿った表記です。\n2026年秋｜近況 この一年で、書くことと発信することのペースが少しずつ定まってきました。紫塞には日々の記録や考えを残し、その中からいくつかを選んで、WeChat公式アカウントでより多くの方に届けています。書いたときは、ただ一つのことを自分の中で整理したかっただけの文章も、しばらくして読み返すと、自分の変化が見えてきます。\n暮らしの中では、運動を日常に取り入れることを、以前より意識するようになりました。歩いたり、軽い筋力トレーニングをしたりして、仕事以外にも自分の体をいたわる時間をつくっています。若い頃はマラソンも走りましたが、今はこうした小さな習慣を長く続けられるかどうかを、より大切にしています。\n子どもたちが少しずつ成長するにつれ、父親という役割についても、あらためて考えています。自分にまだ力があり、これまでに蓄えてきたものがあるうちに、できる限り支え、子どもたちの前にある道を少しでも増やしておきたいと思います。どの道を歩むかは、最後は子どもたち自身が決めることです。\n","permalink":"https://zisai.com/ja/about/","summary":"\u003cp\u003e\u003cstrong\u003e技術の実践者 · 小売業のデジタル化に携わる者 · 紫塞明珠網の創設者\u003c/strong\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eこんにちは、**沈楠（Shen Nan）**です。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e現在は\u003cstrong\u003e寛広控股集団有限公司の取締役・副社長・CIO\u003c/strong\u003eを務め、日本の\u003cstrong\u003e桜美林大学大学院で情報学修士号\u003c/strong\u003eを取得しています。通信部隊、通信事業者、そして小売企業へ。30年以上にわたり、ネットワーク、ソフトウェア、データと、それを使う人々に関わってきました。\u003c/p\u003e","title":"沈楠について"}]